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イスラエルについて

4000年の歴史

イエスも生きた第2神殿時代

ユダヤ人とはだれか?

もともとユダヤ人とは南のユダ王国の国民を指すものでした。しかし王国崩壊後に多くがバビロニア王国内に連れて行かれると(バビロン捕囚)、ユダ王国の末裔という血統による定義としてのユダヤ人という呼称が一般化しました。それを示すようにユダヤ人という言葉が旧約聖書には約90回登場するのですが、その全てがバビロン捕囚の後となっています。バビロン捕囚が始まって約半世紀後、ペルシア帝国によってユダヤ人たちは祖国への帰還が許され、紀元前6世紀終わりにはエルサレムにふたたび神殿が建てられ多くのユダヤ人がユダヤに戻りました。しかし全員が帰還した訳ではなくペルシャに残ったり他の地域に移住したユダヤ人もいました。こうして世界各地にユダヤ人が住み始め、イスラエルに住むユダヤ人とイスラエル外(離散の地/ディアスポラ)に住むユダヤ人の2種類が各々の地で独自の発展を遂げていきました。

こうして多様化していったユダヤ人にとって大きな転機となったのがアレクサンダー大王の東方遠征です。これによってギリシャ文化とオリエントが融合したヘレニズムという考えがうまれたのですが、

ギリシャ的なヘレニズムを広めたアレキサンダー大王

この文化圏では人種も生まれた地も宗教も全く違う何百万人が混在していました。そんな多民語族・多文化を抱えるヘレニズム文化圏では、ギリシャ的教育を受け共通語であったギリシャ語を話せばギリシャ人として認められました。これは、生まれた土地や血統によって決まっていた従来の定義法とは全く違う革新的な民族観でした。これによってエジプト人やペルシャ人、ユダヤ人であっても同時にギリシャ人でもいれるという、2つの民族的アイデンティティーを持つ形が可能となりました。これは現在欧米では一般的な他重国籍や「…系〜人」という表現が発祥した瞬間でもありました。

ではこのヘレニズムがどのようにユダヤ人の定義に影響したのでしょうか。ヘレニズムによって民族についての新定義ができると、イスラエルを中心にヘレニズム文化圏に居たユダヤ人たちは他の民族と同じようにギリシャ人になるか否かを考えると同時に、自らの定義についても再考しなければいけませんでした。ギリシャ人とはギリシャ文化を受け入れた人の事。この新しいギリシャ式定義法を用いると、ユダヤ人とは「ユダヤ文化を受け入れた人」となります。多神教社会であった古代を生きる彼らにとって自分たちのユダヤ文化とは一神教であるユダヤ教の事でした。こうしてユダ王国民でもその末裔という血統とも違う、「ユダヤ教を信じる者=ユダヤ人」という新しい民族の定義ができたのです。

新定義から宗派争い、そんな時代を生きたイエス

ヘレニズムの影響から「ユダヤ教を信じる者=ユダヤ人」という新しい定義ができると必然的にこんな疑問が生まれます−では私たちが信じているユダヤ教とは何なのだろうか? こうして自己定義の再考をしているうちに、その核心であるユダヤ教という自らの信仰についての再定義の必要性に直面したユダヤ人たち。こうしてユダヤ教内で宗派というものが生まれ始め、一神教という排他的側面もあり宗派間争いが激化していきました。のちにキリスト教ではカトリックと正教会の2つができたのですがユダヤ教でも2つの大きな宗派が起こり、紀元1世紀末までの約250年間にわたって宗派間闘争が続きました。1つ目は祭司家系など上流社会を中心にしたサドカイ派、もう1つは律法学者であったラビを中心としたファリサイ派(パリサイ派)です。祭司層の多くを擁したサドカイ派はエルサレムの神殿を中心に、学者であるラビや彼らの信奉者を中心に構成されるファリサイ派は律法を学ぶための宗教的教育施設(シナゴグやベイト・ミドラーシュ)を中心に独自の道を歩みました。また第三極としてエッセネ派も生まれ、彼らは終末の到来と悔い改めについて説き死海地方を中心としたユダヤ砂漠に閉鎖的な共同体をつくり、来るべき終末に備え修道院のような禁欲的生活を送っていました。

このように「ユダヤ教とは何か」という質問から生まれた宗派間や宗派内での論争が巻き起こった時代にイエスは生まれました。またこの時代は、100年ほど続いたユダヤ人の王朝(ハスモン朝)がポンペイウス率いるローマ軍により終焉しローマの圧政に苦しんだ苦難の時代でもありました。このようにイエスの時代は、宗教・歴史的背景から終末や救世主を求めるメシア思想が高まった時代でもありました。

イエス時代から神殿崩壊…そして再び離散へ

イエスに洗礼を授けたヨハネはもともとエッセネ派に所属または関与していたと考えられています。そしてそのヨハネが語った終末・悔い改めをさらに広めたのがイエスでした。なのでイエスもエッセネ派の影響を受けていたのですが、イエス自身は律法学者とユダヤ法や伝統などについて議論をするなどファリサイ派だったと言われています。過激な倫理観などを説きガリラヤ地方を中心にカリスマ的なリーダーだったイエスですが、当時ユダヤの地を支配していたローマに政治犯として紀元30年前後に処刑されました。
イエス処刑後も反乱勃発の66年までローマ総督による支配体制が続き、ユダヤ人たちの間での宗教的・政治的内紛に加えユダヤ人とローマ支配体制との間の緊張も高まり、ユダヤ各地で暴動や小規模ながら軍事衝突などが頻発するようになりました。66年にローマ総督はエルサレム神殿の宝物庫から献金を持ち出すためローマ軍の部隊をエルサレムに送り込みました。こうしてエルサレムで過激派による大規模な暴動がついに起こり、この反ローマ機運がユダヤ全体に飛び火しユダヤの大反乱が始まりました。

ローマ帝国はこの反乱がおきた時にすでに政情が不安定になっており、ユダヤと同時期に他の属州でも反乱がおこったため当時の皇帝ネロが自殺し、ユダヤの反乱の鎮圧を進めていた将軍ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を前にローマに向かいました。このためユダヤ戦争はいったん膠着状態になりましたが、ウェスパシアヌスがローマ皇帝に即位するとユダヤに残っていた息子のティトゥスがエルサレム攻撃を開始し70年にエルサレム神殿は崩壊しました。これ以後、ユダヤ人はイスラエルの地を追放され離散(ディアスポラ)の歴史が始まりました。

エルサレム神殿の戦利品で建てられたコロッセオ wikipediaより

あまり知られていない豆知識ですが皆さんご存知のローマのコロッセオ。実はこの巨大な建築物の工費の多くはエルサレム神殿からの戦利品で賄われていたのです。またフォロ・ロマーノに残るティトゥスの凱旋門も有名ですが、この凱旋はエルサレムを陥落させたティトゥスのユダヤからの凱旋を記念して作られたもので、アーチ内部にはエルサレム包囲戦を描いたリリーフもあります。

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