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イスラエルについて

4000年の歴史

ディアスポラ後のユダヤ人

ローマは反乱の制圧後も、ユダヤ人たちがイスラエルの地に住むことを認めていましたが、2世紀にユダヤ人たちは再びバル・コクバの乱を起こし、再び失敗します。そこで、ついにローマはイスラエルの地からユダヤ人を追放。エルサレムを「アエリア・カピトリーナ」と改称し、ユダヤと呼ばれていたイスラエルの土地を「パレスチナ」と改称しました。
そして離散を余儀なくされたユダヤ人は、ヨーロッパや中東、北アフリカなど地中海周辺各地に移住して行きました。

タルムードの成立

離散の地で、ユダヤ人の生活・信仰の規範となる法典「ミシュナ」(紀元2世紀ごろ)、さらにその注解である「エルサレムタルムード」(紀元4世紀末)と「バビロニアタルムード」(紀元5世紀末)が編纂されました。ユダヤ教はかつての神殿祭祀ではなく、ラビの指導による聖書やミシュナ及びタルムードの研究解釈と言うシステムを確立して行きました。 また各地に祈りの場としてのシナゴグを建設し、ユダヤ教の信仰と民族のアイデンティティを守り続けました。

特にユダヤ教の定めである「安息日を守る、割礼を行う、食事規定」といった厳密な戒律は、他宗教との軋轢を生みましたが、ユダヤ人が他民族と同化して消えてしまうことを防ぐ役割も果たしました。

キリスト教とイスラム教

313年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認され、以後パレスチナは4世紀からキリスト教国家ビサンチン帝国の統治下に入ります。 キリスト教が公認されると、ユダヤ人たちは「キリストを殺した犯人」と言う名目のもと、殺害、暴行、略奪、職業の制限などの迫害を受けはじめました。

7世紀半ばから13世紀まで、西アジアから北アフリカ、南ヨーロッパ一帯を、イスラム教帝国が支配しました。 またムハンマドがエルサレムで昇天したとされたことから、エルサレムはイスラム教の第3の聖地となり、エルサレムの神殿跡にはイスラム教の寺院が建てられました。 これが現在の「黄金のドーム」です。

こうして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、いずれも神から与えられた約束の継承者が自分たちだと主張する図式が出来上がりました。 しかし、イスラム教は当時、ユダヤ人に比較的寛容な政策を取っていたため、イスラエルの地には多くのユダヤ人が住むようになりました。

十字軍

十字軍によるアッコーの町の占拠

11世紀になると、キリスト教徒たちは「異教徒からの聖地奪還」を目指した十字軍を始めました。 異教徒とは、直接的には当時パレスチナを支配していたイスラム教徒を指していましたが、それにはユダヤ人も含まれていました。 ですからキリスト教徒たちは、聖地に行く途中で、多くのユダヤ人を殺害しました。

1099年に、十字軍本隊は聖地エルサレムに到着しますが、エルサレム及び周辺の街々でもイスラム教徒と共にユダヤ人は虐殺され、当時パレスチナに住んでいたユダヤ共同体は、消滅したと言われています。

この後、ユダヤ教徒とキリスト教徒の交際が禁止され、ユダヤ人に対する公職追放令が出されるなど、ユダヤ人の職業選択の自由が制限されていきました。 わずかに選ぶことのできた職業の一つが、汚れた職業である金融業でしたが、それは後に、ユダヤ人は「金に汚い高利貸し」と見られる原因になったのです。

ユダヤ人迫害の歴史

13世紀になると、ユダヤ人たちはさらに自由を制限され、スペインなどでは、改宗するか他国に移住するかの選択を強要されました。 やむなくキリスト教徒となったユダヤ人もいましたが、彼らはマラノ(スペイン語で豚の意)と呼ばれ、改宗後も侮蔑と差別の対象となり続けていました。 また、カトリックは異端審問制度を確立させ、ユダヤ人が少しでもユダヤ的な風習を守ったり、ユダヤ教で禁止されている豚を食べなかったりするだけで、拷問や火刑など残虐な刑罰が科せられました。 この制度は1801年まで続いたのです。

13世紀後半からは、ユダヤ人を追放しなかった国々でも、ユダヤ人隔離の政策を取るようになり、各地で後に「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人の隔離住居区が作られました。

ユダヤ人の解放と反動

しかし、1789年のフランス革命の後、フランス議会でユダヤ人にも平等の権利が認められます。 その後ゲットーが解放され、その流れはヨーロッパ各地へと広がって行きました。 各地のゲットーは解体され、職業選択も規制を解かれ、各界にユダヤ人が進出し、ユダヤの社会構成も激変していきました。 これを啓蒙運動「ハスカラ」と言います。

しかしながら、現実的にはユダヤ人への差別は解消されず、反ユダヤ主義と民族主義のもと、かえってひどいユダヤ人迫害が各地で起こりました。

ロシアでは、1881年からポグロムと呼ばれるユダヤ人大虐殺が何度も起り、犠牲者は数十万人に及んでいます。 また1894年、フランスのユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスが、スパイ容疑で逮捕される「ドレフュス事件」が起こります。 これは彼がユダヤ人であったため、犯人にでっちあげられた冤罪事件でした。

シオニズム運動の誕生

このような背景を受けて、ユダヤ人の中から、ユダヤ人の国家建設を目指す運動が起こってきます。 この運動は「シオンの丘に帰ろう」と言う言葉をスローガンにしたことから、シオニズム運動と呼ばれています。

1897年には、テオドール・ヘルツェルの呼びかけで、第1回世界シオニスト会議が開かれ、パレスチナにユダヤ人国家を建設することが決議されました。 その後19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポグロムを逃れたユダヤ人やヨーロッパからの移民が、パレスチナの地に住み始めました。

第一次大戦後、パレスチナはそれまで続いたオスマントルコ(イスラム教)の支配からイギリスの委任統治領となります。 荒れ果てていたイスラエルには、多くの人々が集まり、活況を呈してきました。

イギリスは1917年、ユダヤ人の国家再建を約束する「バルフォア宣言」を行います。 しかしイギリスは、バルフォア宣言以前にも、アラブ側に同じような取り決め(サイクス・ピコ書簡)を行っていました。 当時の二枚舌政策が、今日に及ぶパレスチナ紛争の火種の一つとなっていきます。

ホロコースト

このような中、第2次世界大戦において、ドイツで政権を掌握したナチスがユダヤ人を滅亡させるため組織的、計画的にユダヤ人を虐殺(ホロコースト)しました。 死の収容所と呼ばれる施設で、数百万人を殺害し、死体を炉で焼くという、前代未聞の計画が実施されたことは、よく知られています。

にわかには信じがたいこの事件の背景には、キリスト教が長年の間に積み上げてきたユダヤ人への差別感情があります。 当時のヨーロッパには、ユダヤ人は動物と同等の存在だという空気があったのです。

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