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イスラエルについて

4000年の歴史

和平への歩み

1993年 オスロ合意

アラファト議長と握手するラビン首相

ノルウェーが仲介者となって、イスラエルとPLOの話し合いが持たれ、ワシントンでアラファト議長、ラビン首相により、パレスチナ暫定自治に関する調印式が行われました。
その結果、1994年5月よりガザ地区とエリコからイスラエル軍が撤退して暫定自治が開始され、自治政府も組織されはじめました。
この功績によりPLOのアラファト議長と、イスラエルのラビン首相、ペレス外相がそれぞれノーベル平和賞を受賞しました。
1995年11月、パレスチナとの和平に尽力したラビン首相が、極右ユダヤ教原理主義者の大学生イガル・アミルに暗殺されます。 神に与えられた約束の地をパレスチナ人に渡すのは誤りだというのが、アミルの信念でした。 ユダヤ人がユダヤ人の指導者を殺害したこの事件はユダヤ人に大きな衝撃を与え、極右勢力への批判が高まりましたが、結局、和平への動きは停滞してしまいました。
オスロ合意では、暫定自治は少しずつ拡大し、最終的にパレスチナ国家ができるはずでしたが、そのプロセスはあまり進みませんでした。 アラファト議長率いるPLOは、様々な組織によるイスラエルへのテロを黙認・容認する立場を取り、イスラエルは自治区の管理強化で対抗したからです。
そしてパレスチナの指導者は政治権力を掌握するや否や、ひどい汚職を始めました。 パレスチナ復興のために世界から投入された資金の多くは武力闘争に使われ、支配階級の私腹を肥やす結果となったのです。
2000年5月23日、イスラエルはレバノン南部から一方的な電撃撤退を実施しました。
これで、20年近い占領状態は終わりましたが、ヒズボラは「実力でイスラエルを追い出した」と自信を深め、様々な挑発行為をするようになりました。(レバノンとイスラエル参照)

2000年10月 第二次インティファーダ勃発

任期末期のクリントン米大統領は、キャンプデービッドにアラファト議長とバラク首相を招き、和平推進に向けて努力を行ないました。 大統領は、沖縄サミットに遅刻までして、交渉を仲介しました。 しかしアラファト議長は一切の妥協を拒否し、イスラエルとの本格的な武力闘争の準備を開始し、ほどなく武装蜂起を開始しました。 数年にわたるこの紛争は、「第二次インティファーダ(アルアクサ・インティファーダ)」と呼ばれます。 ミレニアムブームに沸いていたイスラエルの観光産業は、この紛争で大きな打撃を受けました。

2003年 和平ロードマップ成立

ヨルダンのアカバで和平会議が開かれ、米国主導で「和平ロードマップ」が成立しました。 この和平案は、2005年までに三段階でパレスチナ独立国家とイスラエルとの共存を目指すものでした。 しかしパレスチナ側では、ハマスが猛烈に反対してイスラエルに対する自爆攻撃を進め、これに対してイスラエルも報復攻撃が続きました。
イスラエルは、テロリストの侵入を防ぐため西岸地区とイスラエルの間に「防護壁」の建設を開始しました。 しかし、壁が入植地を取り込むような形で自治区内に建設されたため、将来の国境になるとの非難が出される一方、パレスチナ人が自分の所有する畑に農作業に行けなくなるなど、多くの矛盾を生みました。
防護壁の効果や、国防軍の厳しいテロ対策でテロは下火になりましたが、パレスチナのアッバス首相も辞任して、ロードマップは事実上停止してしまいました。

2004年11月、アラファト議長が死去。 後を継いでアッバス氏が自治政府とPLOの議長に就任しました。 この頃から、ファタハ内部での権力闘争が激化し、アラファト議長の私財蓄積が明るみに出るなどしたため、ファタハの人気が急落。 一方で、ハマスの人気が上昇しました。

2005年8月 ガザ撤退

ガザ撤退に抵抗する住民 wikipediaより

シャロン首相の指揮で、ガザ地区からの全ユダヤ人入植地の撤去とイスラエル軍の撤退が行われました。 ガザからの撤退という決断は、イスラエルの世論を2分しました。 左派の人々は、撤退に賛成しましたが、右派の人々は大反対しました。
イスラエルの撤退を、大英断として世界は称賛しましたが、ガザではイスラエルから返還された広大な入植地跡地をめぐる武装勢力の激しい抗争が起こりました。 入植地跡は、次々に武装勢力の軍事基地となり、ガザの経済発展には役立ちませんでした。
そして、ガザとエジプト間を支配していたイスラエル軍がいなくなったため、ガザとエジプト間には多数の密輸トンネルが作られ、莫大な量の高性能武器が持ち込まれました。 イスラエルへのテロを積極的に進めていたハマスは「ガザ撤退は我々のテロの成果」と宣伝。パレスチナで大きく人気を高めました。

2006年 シャロン首相、植物状態に

シャロン首相は人気が急落し、リクードの党首選で勝てないことがわかったため、自ら新しい中道政党カディマを立ち上げるという選択をしました。 ところが選挙直前の1月に致命的な脳発作を起し、植物状態になってしまったのです。 後を引継いだオルマート氏は、カディマを勝利に導き、自ら首相に就任します。
同じ1月、パレスチナでも選挙が行なわれましたが、ハマスが大勝。ファタハとハマスの権力闘争が激化しました。
また、6月にはハマス系の武装勢力がガザで国防軍の兵士を誘拐しました。 イスラエル国防軍は、奪還作戦を試みましたが失敗。パレスチナにおけるハマスの人気はまたも上昇しました。

2006年7月 第二次レバノン戦争

レバノンの軍事組織ヒズボラが越境攻撃を行い、イスラエル兵士7人を殺害、また兵士2人を拉致するという攻撃を発端に、レバノン戦争が始まりました。
イスラエルにはレバノンから4000発ものカチューシャ・ロケットが着弾し、多くの民間人が犠牲になりました。 また地上戦では、多数の兵士が犠牲になりました。イスラエル軍はロケット攻撃に応酬して空爆を行い、レバノンに約1000人の犠牲者が出ました。
(2年後に、死亡した2人のイスラエル兵士の遺体と、イスラエルで服役中だったテロリスト5人との捕虜交換が行われました。→詳しくはレバノンとイスラエル参照

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