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ユダヤ人のクリスマス?-ハヌカ2016.12.24

旧市街もハヌカ・ムードに…

www.israel21c.org」より

世界中がクリスマス・ムードに包まれている中、実際にイエスが生まれたここイスラエルではクリスマスというよりハヌカ・ムードに包まれています。ハヌカ(?????)は奉献という意味で、紀元前2世紀にユダヤ人がギリシャ人から神殿を奪還したことを記念したお祭り。ユダヤ歴で前後はしますがクリスマスとだいたい同じ時期に祝われています。
今回のバラガン・コラムではユダヤの冬の祭り、ハヌカについて紹介したいと思います。


■ 歴史を祝うハヌカ

紀元前332年にアレクサンダー大王がイスラエルを征服してから約2世紀間、イスラエルはギリシャ帝国(セレウコス朝)の支配下にありました。中東全体にヘレニズム文化が広がりユダヤ人たちも影響を受けましたが、偶像崇拝を強要されることもなくユダヤ教も認められたため、イスラエルでは比較的安定した時期が続きました。しかし紀元前2世紀に入ると、エジプト・プトレマイオス朝の他にもローマが台頭しセレウコス朝は苦戦を強いられていきます。そんななかついにローマとの戦争に敗れ多額の賠償金を払う事となりました。セレウコス朝の権威は失墜、王朝は財政難に陥り資金工面のためユダヤを含む属州への財政的・政治的介入を強引に進めていきました。そしてついに紀元前167年、セレウコス朝の王アンティオコス4世は祭りや安息日、割礼などユダヤ教を全面的に禁止し、エルサレムの神殿は強制的にゼウスの神殿となり、ゼウス崇拝を強要しました。
禁教令をうけイスラエルに住むユダヤ人たちの間でギリシャ王朝に対する不満が爆発、祭司家系のマカバイ家を中心に反乱がついに起こりました。このマカバイ戦争は約7年間続きましたが、ローマからの支援などもありセレウコス朝からついにエルサレムを奪還。すぐさまゼウスの祭司を追放し祭壇も撤去、異教に汚されていた神殿を再び聖書の神に奉納(=ハヌカ)を行いました。
これがハヌカと呼ばれる祭りの歴史的背景です。

マカバイ戦争-セレウコス朝は重装歩兵に加えて戦象を用いたとも言われている。

jewishcurrents.org」より

■ 光の祭りハヌカ

歴史的背景があるものの、もしユダヤ人に「ハヌカの祭りって?」と聞けばほぼ全員から「ユダヤ教の光の祭りだよ」という答えが返ってくるでしょう。それは神殿を清めた奉献時のエピソードに由来しています。
ギリシャ帝国に勝利しエルサレムに入場した時、神殿の聖油はギリシャ人の手によって汚されており、残っていた聖油はたった1日分でした。神殿で使われていた聖油はオリーブを搾った時の1滴目のみを集めた、まさにエクストラ・ヴァージン・オイル。準備にかかる時間が1週間で、残りは1日分ですから絶対的に聖油が足りません。しかしマカバイ家の祭司たちは1週間待たずに奉献式を行い神殿での燔祭を始めました。するとたった1日分しか残っていなかった聖油が奇跡的に8日間も持ち、無事新しく精製された聖油も届き神殿の火が絶える事はありませんでした。
というのがハヌカと聞いた時、ユダヤ人がまず頭に浮かべる奇跡のエピソード。この8日間聖油が持ったという奇跡から、ハヌカの8日間は「ハヌキヤ(ハヌキア)」と呼ばれる特別な燭台に毎晩火を点すのが習慣となっています。ハヌキヤにはろうそくを立てる部分が9つあり、これは種火+聖油が尽きなかった8日間となっていて、1日目は種火と1本目、2日目は種火と1・2本目と日が経つごとにろうそくを1本ずつ足して火を点けていきます。こうして最後の8日目には9本すべてに火が灯されるという訳です。
これはユダヤ人ならだれもが知っている常識ですが、実はこの聖油の伝承が最初に登場するのがマカバイ戦争勝利から650年も経った6世紀だというのはあまり知られていません。また、ハヌカがろうそくに火を灯す「光の祭り」として確立されたのも、ヘロデがイスラエルの王だった紀元前1世紀または紀元1世紀だと考えられており、これも意外と知られていない事実です。
それまでのハヌカはギリシャを倒し神殿を奪還したという歴史の出来事を祝う祭りで、光の祭りという要素は全くありませんでした。ではなぜ歴史を祝うハヌカが100~200年も経ってから「光の祭り」へと変化を遂げたのでしょうか。

エルサレム旧市街にてハヌキヤに火を灯す子供たち

www.israel21c.org」より

■ ハヌカはいつから「光の祭り」に?

そのヒントは当時イスラエルを治めていたヘロデ大王と彼が持ち込んだ古代ローマ文化に隠されています。古代ローマでは農業をつかさどる神への農耕祭(サートゥルナリア)が12月17~23日までの1週間祝われていました。もともとは収穫を祝うお祭だったのですが、紀元前1世紀以降、冬至に近いことから「光の祭り」としても祝われるようになりました。
当時イスラエルを統治していたヘロデ大王はユダヤ人心理に配慮しながらもローマ文化を積極的に取り入れ、エルサレムをはじめユダヤ全土が次々とローマ化していきました。そんな「ローマナイズ」されたヘロデ王の時代に、ローマの光の祭りという要素がユダヤ人のハヌカに取り入れられた、または2つが融合したのではと考えられています。
これはハヌカの歴史的意味からも推測できます。もともとハヌカとはマカバイ家の勝利を祝った祭りでした。そしてヘロデはマカバイ家を滅ぼした張本人です。ですからヘロデ王朝の紀元前後にイスラエルでハヌカを祝うのは、まるで江戸時代初期に豊臣秀吉の天下統一を祝うようなもの。ユダヤ人にとってマカバイ家勝利の祭りであるハヌカを祝うことは悲しく・皮肉めいたものであり、同時にマカバイ家を自らの手で葬ったヘロデにとってハヌカの祭り自体が許し難く、また祭りからマカバイ家の支持者たちが反乱を再び起こす可能性も十分考えられました。そこでヘロデは民衆の人気を集めるため豪華絢爛なエルサレム神殿をローマ建築を用い再建しました。この神殿はマカバイ家の時代の約2倍の敷地面積を誇り、当時のローマ帝国でも有数の巨大で豪華な神殿と知れ渡る事となりました。そしてその神殿の奉献の式典を、マカバイ家と同じハヌカの日に行いました。
こうしてマカバイ家を祝うハヌカは風化し、ヘロデ神殿の奉献とローマ文化からの冬至を祝う「光の祭り」として祝われるようになりました。しかし6世紀になるとユダヤ人の間で奇跡的に聖油が8日間なくならなかったという説話が広まり、再びハヌカはマカバイ家勝利の歴史を祝う祭りと光の祭りという2つの顔を持つ祭りとして現在の形になりました。

再現された古代ローマの農耕祭サートゥルナリア(イギリス・チェスターにて)

www.chesterchronicle.co.uk」より

■ ハヌカのもう1つの顔―ハヌカ太り?

時が経ち中世になると、聖油がなくならなかったという奇跡を記念して、ヨーロッパのユダヤ人を中心に油で揚げたものを食するという習慣がハヌカの新しい伝統となりました。現在でも、ハヌカの間は各家庭で揚げ物を中心とした高カロリーな食事が食べられています。
そんなハヌカの代表的な食べ物のが「レビボット(ラトゥケス)」と呼ばれるつぶしたじゃがいもやニンジンなどを小麦粉でつないで揚げたもの。朝マックのハッシュドポテトに野菜が少し入っている感じの味で、サワークリームを塗っていただきます。

もう1つがジャム入りのドーナッツに似た「スフガニヤ」。イスラエルではこのハヌカで食べられるスフガニヤの影響かドーナッツがあまり浸透しておらず、年配の方々はドーナッツを「アメリカ風スフガニヤ」と呼ぶくらいです。伝統的なスフガニヤは中がキャラメルソースやイチゴジャムとシンプルなのですが、最近はパティシエとのコラボなどでより凝ったスフガニヤなども売られるようになりました。
私のおすすめはカフェ「ROLADIN」で売られているスフガニヤ。写真にもあるようにカラフルなラインナップで、上段の4つにはスポイトがついています。これは中にソースを注入していただくという特別なスフガニヤ。大人にはその上品な味が、子供にはスフガニヤのソースを自分で中に詰めるというアトラクションが人気を博しています。毎年ハヌカの前には日本のおせち紹介のように、各ベーカリーやパティスリーのスフガニヤがメディアで紹介されています。統計によれば祭りの期間だけで2400万個のスフガニヤがイスラエル内で食べられ、ユダヤ人にとって「スフガニヤ抜きのハヌカ」はあり得ないみたいです。
そんな揚げ物・スフガニヤ三昧の結果、イスラエルでは日本の正月太りならぬ「ハヌカ太り」が。。。毎年メディアではスフガニヤ紹介とともに「スフガニヤを食べながらのダイエット特集」が組まれるなど、ハヌカは最も太ってしまう厄介な祭りでもあるようです。

「クリスマスを聖地で!!」と意気込んで来られた方はガッカリでしょうが、「クリスマス・ムードはもうたくさん」という方にはハヌカをお勧めしたいと思います。

ROLADINのスフガニヤ。右下の2つが伝統的なキャラメルとジャムのスフガニヤです。

food.nana10.co.il」より


「バラガン」とはごちゃごちゃや散らかったという意味のイスラエルで最もポピュラーなスラングです。ここでは現地在住7年のシオンとの架け橋スタッフが、様々な分野での最新イスラエル・トピックをお届けします。



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