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PLO
パレスチナ解放機構。当初はアラブ諸国が結成したが、後にアラファト議長によりパレスチナ人主体の組織となり、現在の自治政府を組織している。
DFLP
Democratic Front of Liberating Palestine パレスチナ解放民主戦線。PLO中でも小規模な反主流派グループで、強硬路線を主張する。PFLP
Popular Front of Liberating Palestine パレスチナ解放人民戦線。PLO反主流派で、過去はシオニスト国家の存在を否定する強硬派で2001年10月のゼエビ観光相暗殺事件を実行した。近年は軟化し2国共存を受け入れたが未だオスロ合意には反対の立場を取り、そのためPLOの実行委員会には参加していない。アラファト
Yassir Arafat ヤッサー・アラファト ヤセル・アラファト アラファート PLO議長。パレスチナの最高指導者だったが、2004年11月に病死したが、今でも信奉者は多い。ファタハ
Fatah イスラム過激派で、パレスチナ解放機構(PLO)の中心的グループ。オスロ合意を受け入れ、イスラエルとの共存を目指す路線を選択した。指導者のアラファト議長の死後、アッバス議長が引継いでいる。
【年表】
1964年 パレスチナ解放機構(PLO)設立(6月)
1969年 PLO議長にアラファト(2月)
1972年 PLOがミュンヘンでオリンピック選手村のイスラエル選手を襲撃。(9月)
1974年 PNC(パレスチナ国民評議会=PLOの最高議決機関)がパレスチナ問題の「政治的解決」の方向を打ち出す(6月)
1974年 ラバトでアラブ首脳会議、PLOをパレスチナ人民の唯1正当な代表と認める(10月)
1974年 国連総会がパレスチナ人の民族自決権を認め、PLOに国連オブザーバーの資格を与える(2月)。
1976年 イスラエル占領下の西岸地区市長・市議選で親PLO系が圧勝(4月)
1977年 PLO駐日東京事務所(後にパレスチナ常駐総代表部)開設(2月)
1982年 PLOがベイルートを脱出(9月)。
1985年 イスラエルがチュニスのPLO本部爆撃(10月)
1987年 アルジェのPNCでPLOが再統一。アンマン合意を破棄し、ヨルダンと別路線を選択。(4月)
1988年 アメリカ政府がPLOとの公式の対話を開始(12・16)
1991年 PLOの指導者アブ・イヤードが、チェニスで暗殺(1・14)
1993年 イスラエル議会は、PLOとの接触を禁じている法律の廃止を決議する(1・19)。
1993年 アラファト議長とラビン首相がPLOとイスラエルの相互承認、暫定自治合意を正式確認。オスロ合意の正式調印(9・9)
1995年 日本政府はPLOにODA(政府開発援助)を与えることを決定(6・4)
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