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イスラエルについて

4000年の歴史

イスラエルと近隣諸国

レバノンとイスラエル

第二次世界大戦中の1943年、レバノンはフランス統治から独立国家となり、経済的にも安定した成長をしていました。 1948年、イスラエルが独立すると、周辺アラブ諸国からイスラエルに対して激しい攻撃が行われましたが、その際レバノンはパレスチナ難民10万人以上を受け入れました。

レバノンにはイスラム教とキリスト教(マロン派)の2つの大きな宗教勢力があり、この二つの勢力の間には以前から軋轢がありました。 この2勢力間の緊張は次第に高まり、やがて内乱となったため、1958年に米軍が介入して鎮圧しました。

1967年の六日間戦争時にはレバノンは中立を守りましたが、戦争の結果、パレスチナからさらに多くの難民を受け入れることになりました。 レバノンに逃れたパレスチナ人たちは、レバノン国境を越えてイスラエルに入りゲリラ攻撃を行ったため、イスラエルは1968年、その報復としてベイルートの空港を攻撃しました。これを契機として、イスラエルはレバノン領内に軍隊を派遣してパレスチナ人を攻撃するようになったのです。

1970年にはヨルダンがパレスチナ人を多数追放したため、PLOを含む多くの難民がレバノンに流入しました。 こうした中で73年にはヨム・キプール戦争が起こりましたが、レバノンは再び中立的立場を取りました。

1975年ごろになると、レバノン国内ではパレスチナ人、イスラム教徒、マロン派キリスト教徒が三つどもえの内乱を繰り返すようになり、シリアが1976年に軍隊を派遣して制圧しました。

1982年6月、イスラエルはPLO基地破壊のため7万5千人の地上軍をレバノン南部に投入、PLOはベイルートで包囲され、8月には船でアラブ各国へ脱出しました。 この時、パレスチナ人がサブラ・シャティーラの難民キャンプでマロン派キリスト教徒に大量殺害される事件があり、それはイスラエルの責任だとして非難されています。

その後、しばらくイスラエル軍がレバノンに駐留しましたが、1985年6月には撤退しました。 しかし、イスラエルは国境沿いに「安全保障地帯」と呼ばれる地域を確保し、この地帯を管理するようになったのが、マロン派キリスト教徒からなる民兵組織の南レバノン軍(SLA)です。

しかし、イスラム教徒とマロン派キリスト教徒の争いは再び激化し1989年3月には首都のベイルートも激しい戦火に包まれました。 各国の仲介により同年10月、タイーフ合意が成立し、各派の停戦が成立したが、それまでに15万人が内戦で死亡したと言われます。

その後、イスラム教の中で、イスラエル殲滅を唱える組織ヒズボラが勢力を増し、南部を占領下に置いているイスラエルに対して攻撃を行うようになりました。 この背景にはイスラム革命を成功させたイランの支援と、シリアの暗黙の了解がありました。 ヒズボラとイスラエルあるいはSLAの間の緊張関係は徐々にエスカレートし、1994年にはヒズボラが発射したカチューシャ・ロケット砲が大量にイスラエル北部に撃ち込まれました。

1996年にイスラエル国内で繰り返されたテロ事件と、それまでのカチューシャ・ロケット砲攻撃に対する報復として、イスラエル国防軍は4月、陸海空から大規模な攻撃をレバノン南部のヒズボラに対して行いました。これが「怒りの葡萄作戦」です。 この攻撃ではベイルートの発電所も攻撃されました。

1996年4月26日、米国の仲介によりイスラエル、シリア、レバノンの各国が停戦合意を結びました。 これが「怒りの葡萄合意」と呼ばれるもので、民間人への攻撃と、民間人居住地区からの攻撃をしないことなどを内容とするものでした。 また、米国、フランス、ロシア、EUなどを加えた監視部隊が安全保障地帯に駐留し、停戦合意の遵守状況を監視することになりました。

その後、ヒズボラがイスラエル側に対する攻撃を再び激化させ、SLAも含めた数多くの死傷者が出る事態となり、1999年5月の選挙でイスラエルの首相になったバラク首相は1年以内のレバノン撤退を公約に掲げ、レバノンやシリアとの交渉を行ないました。

イスラエル側は、レバノンとの和平合意にもとづく撤退を目指しましたが、シリア和平とも絡めた「三角交渉」が不調に終わったため、2000年5月23日、一方的な電撃撤退を実施しました。 これで、20年近い占領状態は終わりましたが、ヒズボラは「実力でイスラエルを追い出した」として自信を深め、イスラエルへの砲撃など、様々な挑発行為をするようになりました。

2005年2月、レバノンの反シリア派だったハリリ元首相が自動車爆弾により殺害される事件が発生。 シリアの関与が疑われるとして、国際社会がシリアのレバノン干渉だとして非難したため、この事件は後々まで大きな問題になりました。

2006年7月、ヒズボラはイスラエルへの越境攻撃を決行し、兵士7人を殺害、2人を誘拐しました。 これをきっかけに、1ヶ月以上にわたる戦争が起こりました。
イスラエルにはレバノンから4000発ものカチューシャ・ロケットが着弾し、多くの民間人が犠牲になりました。 また地上戦では、多数の兵士が犠牲になりました。イスラエル軍はロケット攻撃に応酬して空爆を行い、レバノンに約1000人の犠牲者が出ました。 双方に大きな被害をもたらしたこの戦争は「第二次レバノン戦争」と言われます。(ただし、第一次レバノン戦争という言い方はありません。)
この戦争で、準備不足のイスラエル軍に対して善戦したことで、ヒズボラは「大勝利」を宣言しましたが、レバノン南部は壊滅的な打撃を受けました。 しかし、ヒズボラはこの戦争でレバノン国内での権力を拡大しました。
レバノン南部には、再び国際部隊が駐留し、平和を守る任務が与えられました。

2008年7月、死亡した2人のイスラエル兵士の遺体と、イスラエルで服役中だったテロリスト5人との交換が行われました。

2008年10月、シリアは「レバノンは自国の一部」とする従来の見方を転換し、レバノンを国として認めて外交関係を樹立しました。


2009年4月から10年7月までの間にレバノン側ではイスラエルに加担したというスパイ容疑で100名余りが逮捕されました。その中にレバノン軍の大佐が含まれていた事もあり、逮捕者の多くは死刑判決を受け政府側も当初死刑執行を明言していました。しかしレバノンでは事実上死刑は廃止されているため、多くは再審で終身刑に減刑されたり証拠不十分で釈放される事となりました。 その後も休戦状態なものの現在にいたるまで小規模ではありますが軍事衝突が1年に1度ほどは起こっており、イスラエルとレバノンは緊張状態にあります。

レバノン人の女性を救出するイスラエル国防軍の兵士 wikipediaより

しかしそんななか、明るいニュースが全くない訳ではありません。 2010年11月、80歳女性のレバノン市民が誤って国境地域に入り境界線上のフェンスに衣服が引っかかり身動きが取れなくなるという事態が発生しました。その場には数多くの地雷が敷設されていたためレバノン軍は救出活動ができずにいましたが、それを見たイスラエル軍は危険物撤去隊や国境警備隊などの合同部隊を結成し彼女の救出に成功しました。その後イスラエル側の病院で負傷していない事が確認され、国連レバノン暫定軍に引き渡されレバノン側に無事送還されました。

ヨルダン

ヨルダンはもともとオスマン帝国領でしたが第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となり、第二次大戦後の1946年に独立を宣言しました。
2年後にイスラエルが独立を宣言しヨルダンはアラブ連合軍としてイスラエルに侵攻しましました。この独立戦争(第一次中東戦争)はイスラエル優勢のまま国連の停戦勧告を双方が受け入れ休戦となり、その翌年に現在の西岸地区がヨルダン領となりました。この事から西岸地区には現在でもヨルダン国籍保有者が数多く居ます。またこの時期からパレスチナ過激派が起こり始めヨルダン国内の治安が不安定化したため、ヨルダンとイスラエルは治安維持等で密かに関係を深めていきました。なぜ密かにだったかというのは、アラブ連盟ではイスラエルと平和条約締結や友好的外交を行うと除名処分となっていたためこの2国間の協力関係は当時公にされる事はありませんでした。1956年にエジプト・イスラエル間で第二次中東戦争が勃発しましたが、イスラエル側の予想に反しヨルダンは参戦せずその後も共有するヨルダン川の水源確保などでの協力的な外交関係が続きました。また58年にはエジプトと隣国シリアがアラブ連合共和国として統合したため、挟まれたヨルダンはイラクと共にアラブ連邦を構成しシリア・エジプトに対抗しました。このことからシリア国境部での軍備増強が急務だったヨルダンはイスラエルに密使を送り、非公式ではありますが不可侵協定を結びました。

PLOが設立された第一回アラブ首脳会議(カイロ)

60年代に入っても両国の比較的友好関係は続き、外交会談が行われヨルダン川問題や西岸地区での治安・情報共有などでの協力関係を維持していましたが、64年に転機が訪れます。PLO(パレスチナ解放機構)がアラブ連盟によって設立されたのです。パレスチナ過激派に手を焼いていたヨルダン政府は当初は設立に難色を示していましたが、アラブ諸国の手前反対する訳にもいかず結局PLOを承認しました。しかしこのPLO承認によりイスラエルはヨルダンに対する不信感を抱き、両国間では再び軍事衝突が散発するようになりました。そこでヨルダンは、敵対国だったエジプトと反イスラエル同盟を結び第3次中東戦争は避けられない状態になりました。

1965年6月5日イスラエルはエジプト空軍基地を先制攻撃し、反イスラエル同盟を結んでいたヨルダンは参戦しイスラエルを攻撃しました(第三次中東戦争)。しかしイスラエルもヨルダンの進軍に素早く応戦し、2日間でヨルダン領だった東エルサレム・西岸地区を制圧し戦争自体も6日で勝敗が決しました。この戦争でイスラエルはエルサレム奪還や西岸地区、シナイ半島・ゴラン高原を自国下の支配にし、戦争前と比べ自国領を4倍以上にも拡大しました。イスラエルではこの戦争を勝敗が決した日数から「六日間戦争」と呼ばれています。イスラエルは東エルサレムをイスラエル領とすることに決め、もともとイスラエル側であった西側と共にエルサレムが約2000年ぶりにユダヤ人国家の首都として統一されました。

ヨルダンで活動するPLO兵士たち

ヨルダン国内ではこの敗戦からパレスチナ過激派の活動がさらに活発化しイスラエルと戦後すぐに協調関係を築こうとする政府に対する反乱も数多く起こりました。そしてついに1970年、政府とPLOの間でヨルダン内戦が発生しました。隣国シリアはPLOを支持していたためヨルダンに侵攻しシリア・ヨルダン、そしてエジプトを含めた大規模なアラブ戦争に発展するのは必至でしたが、イスラエル軍がシリアとの国境部に多くの部隊を配備したりヨルダン領空からシリア軍に対し牽制行動を取るなどしたため、シリア軍は撤退せざるを得なくなりました。こうして全面戦争を避けPLO鎮圧に成功したヨルダン政府は内戦後、非公式にイスラエル政府に謝辞を述べ2国間の関係はさらに良好になってきました。

73年の第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)開戦時には、エジプトとシリアはヨルダンに共闘を求めていました。しかし武力によってイスラエルを屈服させることは不可能だという現実路線から、ヨルダンは参戦を渋っていましたが最終的にアラブ諸国からの圧力によりシリア軍支援という形で参戦しました。
六日間戦争でイスラエルが西岸地区を占領した後も西岸地区の主権を主張していたヨルダンですが、第1次インティファーダが87年に始まると本国への飛び火を恐れ態度を一変、西岸地区における主権を正式に放棄しました。そして90年代に入るとヨルダン・イスラエルは平和条約締結への道をさらに進めていきます。

平和条約締結後に一服するフセイン国王とラビン首相 wikipediaより

92年にイツハク・ラビンがイスラエルの首相に就任すると翌年にはオスロ合意がイスラエル・パレスチナ間で締結されました。そしてその1年後には再びクリントン大統領の仲介のもと、ホワイト・ハウスでイスラエル・ヨルダン平和条約が締結されました。 その後はイスラエル南端のリゾート地エイラットから日帰りで行ける事から、ペトラやアカバがイスラエル人の間でも人気で手軽な海外旅行の行先になるなど、両国の関係は主に良好です。また両国の観光産業を支えている死海の縮小・干上がりは近年深刻で、それを防ぐための共同プロジェクトとして2013年には死海に水を供給するため紅海に共同で海水淡水化の工場を建設する事で合意しました。
イスラエル人や外国人旅行客でもイスラエルの査証スタンプが旅券にあると、アラブ諸国のほぼ全てで入国拒否になるのが一般的なのですが数少ない例外の1つがヨルダンです。イスラエル人にとってヨルダンは中東(アラブ世界)で「危険を感じずに旅行を楽しめる唯一の国」と言ってもいいでしょう。

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